福音の基本 救い主イエス・キリスト
読むみことば: ヨハネ1:1-4
今日の教育目標: イエスは神の御姿であられる方で救い主の使命を果たすために人としての性質をもって現われたことを悟って神様の愛を知るようにする。
聖書の核心は「イエス・キリスト」です。
旧約聖書は救い主として来られるイエス様を予言し、新約聖書はこの地上に来られて旧約の預言と救いを成就したイエス・キリストの働きを記録したものです。イエス・キリストの根本を知るために、聖書66巻がなぜ一つなのか、について少し学びましょう。
一つのテーマを持った聖書66巻の著者である神さまは、聖書を通して神様の意図を明らかに示されました。聖書を見ると、神は人を愛されて人間を救う摂理を施し、罪の問題を解決して永遠の命を得るように救いの方法を具体的に提示していることがわかります。
それゆえヨハネの福音書5:39に、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」と記されているのです。
したがって、聖書は創世記からヨハネの黙示録まで66巻で構成されて、永遠の過去から永遠の未来に至るまでの、世に対して神がなさったことを包括的に統一された話として記述されていますが、主人公はイエス・キリストであり、イエス・キリストを通して人類を救うという一つの内容を含んだ貴重な書物であるということです。
また、聖書は旧約聖書と新約聖書に分けられますが、これは神がこのイスラエルの民と結んだ二つの大きな約束、すなわちモーセの契約(出エジプト記24:8、列王記 第二23:2)と新しい契約(マタイの福音書26:28)とに分けられたもので、神の人類の救いの方法である律法と福音に関することです。ここで福音とは律法を全うするもので、旧約と新約が合わせて一つを成すという意味です。
したがって、すべての本に始まりと終わりがあるように、聖書という尊い本は創世記に始まりヨハネの黙示録で終わるのですが、旧約39巻を元に新約27巻が形成されているので新約は旧約の完成であるといえます。
したがって、旧約はイスラエルの民にだけ当てはまるものだと思っておろそかにするなら、これは間違った考えです。旧約の「イスラエルの民」はすべての神の子供を意味するもので、神様は昨日も今日も、いつまでも同じであって、神を信じる人は当然旧約の神も信じて、新約の神も信じなければなりません。また、ある人たちは聖書66巻の一部分のみを受け入れる人々がいます。自分に有利な神様のみことばだけを受け入れて行いますが、損になると思われる神のみことばはおろそかにします。
収入全体の十分の一を神のものであると思って神様に捧げる十分の一の生活や、主日を守ることなどを律法的であると思って、「必ず守るべきなのか」と思いながら行わない人がどれほど多いでしょうか。そう言いながらもイエス・キリストを信じれば永遠の命を得るのだから自分は救われたと思います。
マタイの福音書7:21でイエス様はどのようにおっしゃったでしょうか。「わたしに向かって,『主よ,主よ.』と言う者がみな天のみ国にはいるのではなく,天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」とあります。
イエス様が神の子、キリストであることを信じるなら、神のことばが記録された聖書を熱心に読んで聞いて一点一画も変わらぬ神のみことばを霊の糧として神のみ心を行なう者になってこそ、永遠の命を得るようになるということを知るべきです。
したがって、ヨハネの福音書20:31には「しかし、これらのことが 書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」とあります。
聖書はどのようにして66巻に区分されたのか。
聖書が66巻に区分されているのは神が最初から66巻に分けて記録するようにしてくださったからではありません。神は聖書を一つの本としてくださり、人々が区分するうちに66巻になったのです。
神は聖霊に動かされた人たちを通して聖書を記させたので、聖書が記録される時にはすでに聖書として認められたものです。
しかし、約1600年間、約40人の記録者たちによって記録されたので、聖書は記録年代や記録場所、記録者や記録者の階層、記録文字や文体などがさまざまです。したがって、どんな本が聖書に属するかを決める問題が人々に提起されました。
それではどうして66巻だけが聖書になったのかということです。
これは正経(せいけい)の問題だと言われます。正経を意味するギリシャ語、キャノン(canon)は本来、尺度や長さを測る棒など定尺を意味する言葉として使われていました。これが聖書と係わって用いられる時にはその霊感性と権威のテストを経て認められた本の集合を指します。
したがって、聖書66巻はそれがキャノン(canon)=聖典として確定される以前でもキャノン(canon)=定尺であったが、教会や公議会によって公認されることによって、現在聖書と呼ばれる本に集められたものです。
私たちは、聖書の記録だけではなく聖書の分類も神が司られたことを信じて、聖書66巻は全知全能の神のみことばとして、一点一画も変わらぬ命のことばであることを信じ、霊の糧として聖書の核心であるイエス・キリストを心に信じて義と認められ、口で告白して救われる(ローマ人への手紙10:10)幸いな聖徒にならなければなりません。
旧約は39巻からなっていますが、これは学者エズラによって集められたユダヤ人のキャノン(canon)22巻と同じです。内容は同じでも分類の方式を七十人訳聖書(Septuaginta)によったので現在のように39巻になったのです。
七十人訳聖書(Septuaginta,Greek version of the Old Testament; LXX)はユダヤ教のラビたちによって、紀元前3世紀中頃からモーセ五書を初めて訳し始めてから約100年に渡って、パレスチナ外域ディアスポラ地域(diasporaは'散らばっている'という意味)のギリシア語を使うユダヤ人共同体のために、旧約聖書を当時の公用語であるギリシャ語に訳した最初の翻訳本です。
紀元前2世紀中ごろのアリステアスの手紙に記録された伝説によると、ギリシャ語に詳しい72人(十二支派からそれぞれ6人ずつ選出した72人)のユダ人律法学者によって、アレキサンドリアでプトルフレーマーイオピルラデルプス(BC285-247)の統治期間であるBC3世紀中頃からBC2世紀末頃までに翻訳を完了したといいます。
このような翻訳の必要性は、当時ユダヤたちの間でヘブライ語よりもギリシャ語のほうが馴染み深い口語だったからで、一方、異邦人たちに宣教するために翻訳されたという見方もありますが、こうした必要性は副次的であったはずです。
もともとユダヤ人のキャノン(canon)は22巻としてモーセ五書、預言書13巻、詩書4巻になっていました。しかし一巻となっていた十二小預言書を12巻に分けてサムエル記、列王記、歴代記をそれぞれ上下2巻に分けて、また一巻になっていた士師記とルッ記、エズラ記とネヘミヤ記、エレミヤ書と哀歌をそれぞれ2巻に分けたので17巻が増えたことになり計39巻になったということです。
また、新約は27巻ですが、使徒や使徒の同労者たちによって記録された後、個別的に聖書として認められて教会が保管してきてからAD397年カルタゴ宗教会議で正典として公認されました。この会議では「正典として承認されないものはどれも教会で読まれてはならない」と決められました。
したがって、聖書で名称を持っている66巻はすべて正典と認定されたもので、聖霊に動かされて記録された神のことばなのです。
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