「福音」
読むみことば: ローマ人への手紙 1:8-17
教育目標: 全人類に告げ知らせるよう神が命じておられるメッセージが「福音」であることを知って、完全な救いを達成するようにする。
1. 福音とは その1
「福音」とは「喜びのおとずれ」という意味です。
福音は死と破滅の影の中にいる人類に救い主であるキリストが訪れたという喜びの知らせです。ですから、私たちは福音という良い知らせを絶えず伝えなければなりません。長く信仰生活をしていると、初めのころの熱かった信仰が冷たく冷えて、熱くもなく冷たくもないなまぬるい信仰生活に陥りやすくなります。
そして福音について曲解したり疑ったり、また高ぶったりして救われた感動がなくなったりする場合もあります。ですから救いの感動を回復するために常に福音を聞き続けることが必要です。
ここで「救われた喜び」とは、私たちが生まれ変わった時に体験した「救い」を与えてくださった神様への感謝であり、救われた者としての喜びです。
ある人は救われた喜びを「言葉では言い表せない喜びで、栄光に満ちた喜びだった。私の喜びはまるで洪水のように川岸を越えて氾濫した」と表現しました。
この喜びはしっかり悟らないとあやふやになったり古くなってしまい、結局罪を犯したりして横道にそれてしまいます。私たちは肉を持っている信仰の弱い人間ですので、福音について聞き続けないと救われた喜びが鈍くなる恐れがあるのです。
福音を聞くことは、学ぶことであり、また悟って繰り返し覚えていることです。またその恵みにとどまっているということです。
パウロは「御霊の賜物」つまり、福音をローマ教会の聖徒たちに分け与え、堅い信仰の上に立てて、その信仰によって共に喜ぶことを願っていました。
<ローマ人への手紙 1:11-12>には「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」と言っています。
パウロは3年の間牧会をしていたエペソ教会のために、福音をさらに深く悟ってほしいと祈りました。
<エペソ人への手紙1:17-19>に「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」と書きました。
1年半牧会をしていたコリント教会に、パウロが伝えたのは「福音」でした。
<第一コリント2:2>に「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」とパウロは告白しています。一言でいうと、パウロには福音がすべてでした。
ローマ教会と同じように、私たちも福音の感動を受けなければなりません。
主はパウロがローマ教会に話したように、私たちにもお仰せになります。
<ローマ人への手紙 1:15>に「ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」と書いてあることを私達に適用すれば、信じるという「あなたがたに」、しかし何よりも「福音の喜びがないあなたがたに、福音を伝えたい」と願っているのです。
私たちも福音の意味を改めて悟って、一緒に助け合い、神のみこころを成す者になりましょう。
福音のうちには神の義が啓示されています。
福音のうちに啓示されている神の義は、キリストを意味します。
不正をする者たちに、キリストにあって、キリストを通して、神の義であるキリストを遣わして、キリストを信じる信仰によって義と認められる福音の力を表現します。つまり、神が罪人を罪人ではなく義人として認めてくださるのです。
私たち罪人を滅ぼされるべき囚人としてではなく、愛される子どもとして見てくださることが、まさに福音に現れた神の義なのです。
福音の義は神の御前で義なるものです。
人間は、律法や良心や行動では神の義を得ることができません。この地上で神の御前で義と認められる人は一人もいません。ただお一人、イエス・キリストだけです。
良心によって、行動によって、律法によって神の御前で正しい方はイエス様だけです。
したがって、神さまは神の義をなすためにイエス様をこの地上に遣わしてくださいました。
イエス・キリストを信じる信仰だけが義なので、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められるのです。
神の義の概念は、神が罪人を善良な人に仕立てるという意味より、罪人を罪人として扱わず、義人として認めて愛してくださるという意味です。
罪人を、滅ぼされるべき囚人として扱う代わりに、愛される神の御子として見てくださることが、まさに福音による神の義の概念なのです。
神が私たちを敵ではなく友として、また罪人ではなく正しい人として認めてくださるのです。
これが神の義の概念で、福音の本質です。
神が義とお認めになる者は、神と敵であった関係から愛と信頼の関係、和解と喜びの新たな関係になります。したがって、義と認められた人は裁きを行う神様の御前に大胆に進み出ることができるのです。
罪によって失った本来の関係を回復して、裁きの主と被告人ののろわしい関係から父と愛する息子という祝福の関係に戻ります。
福音のうちに神の義が啓示されていることは、より具体的にキリストの十字架を通して現されています。
キリストは、神の聖さと公義のために、罪人たちの罪の代価としてご自身を差し出してくださり、水と血をすべて注ぎ出されました。
このようなイエス・キリストの十字架の死は神の公義を啓示されただけではなく、罪人を許す愛を見せてくださったのです。つまり、神の公義と愛を共に示しているのです。
十字架の死を通して見せてくださった神の義は、罪人である私たちを義人として認めてくださいます。キリストの義がキリストの死を信じる人々に転嫁されたのです。
ですから、神の義として私たちの義になってくださったイエス様を常に覚えましょう。
<ローマ人への手紙 3:21‐22>に「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」とあります。
また、<ペテロの手紙第一 1:8‐9>に「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」
2.福音とは その2
キリストを覚える時、不思議な喜びを体験することができます。
〇 十字架をしきりに黙想してください。
すべての罪から許された平安が胸いっぱいに満ちるでしょう。
〇 自分が神の子どもであることを告白してみましょう。
自分がどんなに恵まれているか改めて驚くことでしょう。
〇 天国を常に望みましょう。
空を見上げて天国を思う時、世で傷ついた心の傷が癒されるでしょう。イエス様より優れているものはないと心から信じ、救われたことよりも嬉しいことはないという言い表せない感激が湧き出るようになるでしょう。
オーストリアのある村には美しい橋が一つあります。その橋には12体のキリスト像が建てられてあります。
その12体の像はいろいろな姿をしています。羊飼いはその橋を通り過ぎながら良い牧者のキリスト像の前で、庭師と農夫は種をまいているキリスト像の前で、漁師たちは暴風を穏やかにしたキリスト像の前で、そして病人たちは癒し主であるキリスト像の前で、他の人々はそれぞれ自分と関連があるキリスト像の前で、しばらく立ち止まっていました。
神の義であるキリストはそれぞれの人に合わせて働いてくださることを信じます。
福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませると書いてあるとおりです。
神の義であるキリストが私の義になるのは、福音によって信仰という道を通してのみなされるのです。
イエス・キリストを王として、主人として受け入れて聞き従うことによって私たちの中に変化が起こります。そして、神が認める義人になることは、イエス・キリストが自分の主人であることを告白し、キリストの中に自分を迎え入れることによってなされるのです。
使徒パウロは<ガラテヤ人への手紙 2:20>に「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」と告白しています。
信仰は自分を打ち砕くことから始まります。
私たちは自分の不完全な理性と知識、頑なな心や固執、高ぶりで、科学を第一の真理であると思ったり、神のことばを物語や神話であるかのように思う不信仰は全部捨てなければなりません。このようなものが心の中にあるならば、決して福音の種が心に植えられないからです。
信仰の核心は主を受け入れることの告白です。
イエス様を自分の救い主として信じてイエス様を受け入れること、これが信仰の核心です。
自分のすべてをイエス様に委ね、絶対的にイエス様を信頼して無条件に主のことばに聞き従うこと、これがパウロの言う信仰の概念であり福音の本質です。自分の主人は自分ではなく、主が自分の主人になることを願い、自分の救い主はイエス様であることを人々の前で告白できるのがまさに信仰なのです。
まことの信仰は永遠なものです。それは瞬間的な感情や情熱ではありません。全き信仰は神との約束と救いだけを望んで、決して周囲の環境によって挫折することなく最後まで忍耐しながら守っていくものです。
神さまだけがまことの神であり、イエス様だけが私の救い主であることを疑うことなく、ただ最後まで前進していくのがまことの信仰です。
福音はキリスト教の聖徒にとって信仰のよりどころです。
イエス・キリストの死と復活に表れている福音は、イエス・キリストがまさに旧約の預言者たちの口を通して預言した神、メシヤであることを証ししています。
このような証拠に基づいてイエス・キリストを信じてイエス・キリストが自分の主であることを告白する者が福音を信じる者です。福音を信じる者には救いがあり、信じない者には裁きがあります。ですからイエス・キリストがこの地上に来られたことと、イエス様が成し遂げられた救いの働きは「喜びのおとずれ」「福音」なのです。
使徒パウロは「義人は信仰によって生きる」と話しました。義人になれることも信仰によるものであり、キリスト教の聖徒の活力は最後まで信仰です。義人は信仰によって生きるからです。
信仰は私たちの生きる力でなければなりません。
神が私を義人であると仰せになりましたので自分自身をこれ以上裁いてはいけません。
ただイエス様を信じてイエス様だけで生きていく。これが信仰です。
「義人は信仰によって生きる」ということは、信仰によって死の刑罰から救われ、永遠の命を得ることを意味すると解釈できます。
イエス・キリストの福音を信じる者だけが、義人として神が与えてくださる永遠の救いを受けることができます。
<ローマ人への手紙 1:16>に「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」と書いてあるとおりです。
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